武豊線は東海道本線の大府から知多半島の武豊までを結ぶ路線で、元々は1886(明治19年)に当時の中山道経由で東京と京を結ぶ幹線(のち東海道経由に変更)建設のためその資材陸揚げのために建設された歴史の古い路線でしたが、その役目を終えた後は大府(当初駅はなかった)で東海道本線と接続すると非電化のローカル線となってしまい、さらに沿線も名古屋鉄道が運転本数などで勢力を伸ばし、武豊線は
「歴史に名を残すだけの」のんびりとした路線となってしまいました。
ただそうはいっても名古屋近郊の通勤通学路線としての旅客需要も多く、ようやく電化の動きも見えてきて、ようやく面目を一新する日が来ようとしている昨今です。この旅の画像は昭和53年(1978)の夏のものですが、詳細な行程などの記録が見つかりませんので
とりあえずネガの順をおってスナップを掲載しました。
当時の行程はおそらく東京を大垣行き夜行に乗り。名古屋手前の大府で下車し接続の武豊線921Dに乗り継いだと思われます。そして武豊まで往復し、7時40分に名古屋に着きました。
東京から347M大垣行→大府05:43/44
大府05:52:59ッ921D(休日運休)→武豊06:30
武豊06:40ッ925D名古屋行(休日運休)→半田06:48→大府07:14→名古屋07:41
C11265号は昭和45年までこの線などで働き、無煙化の際の「さよなら列車」を牽いた由緒ある機関車で、役目を終えたあと縁のカマということで同地に保存されていました、その後整備もされ保存会なども出来て近年半田駅隣接の貨物線跡に移設され美しくよみがえりました。
最新の画像などはリンクしていただいている吉野富雄様の五条川鉄道写真館の保存機のコーナーに同機の画像がありますのであわせて御覧ください。
武豊線は鉄道紀行作家の宮脇俊三氏が当時のこの線(昭和50年代)について語るとき、その歴史を文章で綴っても夕方の関西本線の名古屋口とともに「没落(落ちぶれた)した旧家の気位だけ高い爺さんが家系図を示しながら由緒を誇るようなものではあるが・・・。」と氏ならではの表現をしているが、それだけ歴史や由緒を思うとき愛着も湧くものだということを示したかったのでしょう。
武豊から乗車してきた925Dはキハ58系の編成が示すようにこのあと名古屋区の間合運用で、名古屋に戻ると関西本線の急行運用についていました。(「休日運休」のため平日の通勤・通学のためのサービス)名古屋に着くと車両はそのままホームに残り、30分ほどで急行「平安」「かすが」号となりました。
この歴史を感じさせる愛称にひかれてそのまま車内にとどまり、関西本線ー草津線経由のかつての幹線ルートを走る急行列車の旅を楽しんだのでした。