「39679」のプレートがはめ込まれた立派な台座の上に展示されている。
台座がほぼなくなり見やすくなったがプレートなどはそのまま
39679
大正9年、川崎車輌製(製造番号532)。主に本州の北部で活躍、昭和30年代後半には青森で主に入換業務をこなし45年に酒田、47年には新津と移動、その後北海道に渡り名寄を経て最後は追分区に配属され、昭和51年3月2日の「日本最後の国鉄蒸気機関車」の1両となって仕事を終え、しばし有火で保管されたあと3月31日に廃車となった。
台座文章(要約)
動輪のあゆみエピソード この動輪は「39679」号のものなのか?
この動輪が39679のものであるという真偽は刻印がはっきりしていないので何とも言えない。ただ実車は御存知の通り北海道・追分で昭和51年3月に用務を終えた「国鉄最後の蒸気機関車9600」のうちの1両であり、追分の前には本州では新津や青森に在籍はしていたが、高山線に関連する機関区に籍を置いたことはない。
台座の文面の「大正9年1月に製作され・・」というところは確かに39679も該当する(大正9年度製造の9600は39677〜49674の98両)が、「高山線では昭和16年7月14日に高山機関区に配属となり・・」の部分では昭和16年の高山区の配置表にある11両の9600には39679の機番は見当たらない。
そこで考えられるのが昭和16年に高山区に配属され、昭和43年の同線蒸機の最終期まで同区に在籍していた「79639」というカマの存在が考えられる。同機は大正13年製ではあるが、39679と同じ数字の組み合わせである番号であり、碑文を制作する際に思い違いをされたのではないだろうか? この動輪が「39679」とされれば細かい履歴を知る人でなければそれに沿って「大正9年製造」とされ、あとは高山線の「79639」の履歴をなぞってしまったのではないだろうか? そして台座完成時にナンバープレートも「39679」とされてしまったのではないだろうか。埋め込まれたナンバープレートは39679が実際に付けていたものかレプリカかは不明だが、レプリカであればこのような推理も成り立つであろう。