JR東北本線(宇都宮線)石橋駅から徒歩約15分ほどのところにある大松山運動公園の隣にある「スポーツ交流館」の入口横に屋根付きの状態で片側が保存されている。
説明板のようなものはこれだけで、残念ながらこのカマについての説明や保存のおおよその経緯を示すものは他には掲示されていなかった。
動輪の隣にある「C571」のナンバープレート(レプリカ?)が埋め込まれた記念碑。形式入りで地色が赤に塗られているのは凝っているが、この記念碑が隣の動輪とセットで作製されたものかどうかは不明である。なお石碑には『新特急なすの号停車記念 昭和60年3月14日』と寄贈者の名前が書かれている。
コンクリートの土台と片側のためしっかりと背面も固定された状態での保存。屋根工事一式は平成8年にされたものとの記述もあるので当初からこの状態であったかどうかはわからない。
この動輪の設置・屋根の工事について
動輪の左右の簡単な説明によれば、この工事は「平成8年4月」に行われたらしい。当初の保存時は露天だったのだろうか。また屋根などがあったのを補修したのかもしれないが、片側の小金井駅前にある動輪も似たような民家の屋根風のものが付けれられていることを考えると、これにならってこの動輪の展示方法として考えられたのではないだろうか?(小金井のものは一見新しく見えるが設置時期の記述に従えば昭和54(1979)年1月とあり、こちらのものよりも前に設置されていることがわかる)また最初からこの場所にあったかどうかも調査不足なのでわからないが、こういった記念のものの多くは駅前に置かれる場合が多いので、当初は石橋駅近くにあったのではないだろうか? 石橋駅はその後グリム童話にちなんだ洋風の塔などを持った橋上駅に改築され、また駅前広場も整備されているのでもしかしたら市民の憩いの場であるこの運動公園周辺に移設されたのではないかとも思われる。
この動輪の設置時は当地はまだ栃木県下都賀郡石橋町(小金井駅前のものも下都賀郡国分寺町)であって、両町とも2006年1月に河内郡南河内町などと合併して下野市となりました。従って現在は二つのC5738の動輪も同市内のものとなっているわけです。
このC571プレートともに設置されている石碑の意味は、1985(昭和60)3月14日、急行「なすの」の新特急化にともなって石橋駅もその停車駅になったことを記念したものだと思われます。この列車は新幹線の上野開業などによるダイヤ改正で急行「なすの」などの格上げによるものでしたが、実質は新型車両(185系200番台)による汎用車両化ということだけで時間的や料金的なメリットはあまりなかったものですが、やはり地元にとっては「特急停車駅」になったことは誇りのひとつになったのでしょう。その意気込みが感じられます。その新特急も平成8年(1996)4月に愛称の変更などで消えてしまい、列車名は1995年に東北新幹線の一部の列車に採用されましたが本線筋では優等列車としての「なすの」の愛称もいつのまにかなくなってしまいました。いまこの石碑の文章を読んで内容が理解できる人たちも少なくなってきているのではないでしょうか。
なお、新特急「なすの」の大宮以遠の主な停車駅は、大宮ー蓮田ー久喜ー古河ー小山ー石橋ー宇都宮であり、小山〜宇都宮間の中では石橋駅が主要な停車駅として選ばれたのでした。「なすの」が消えたあとは快速「ラビット」がほぼ同じ目的列車として活躍していましたが、現在は愛称のない「快速」として同じ様な時間帯で運行されています。なお現在の宇都宮線の快速の停車駅は大宮ー小山間は「なすの」と同じですが、石橋を含む小山ー宇都宮間は各駅停車となっています。
C5738
昭和13年(1938)1月、日立製作所製(製造番号946)。新製後金沢に配属され北陸線などを走る。その後米原を経て水戸・平などに在籍し36年5月に再び金沢へ戻るが程なく渡道し室蘭区・苗穂区を経て47年末に岩見沢第一区へ配属された。日本最後のC57のうちに1両ともなり室蘭本線で多くのファンに親しまれた。廃車は51年3月1日。
また同機の動輪はすべて保存され、第1動輪が同県内の大田原市ぽっぽ公園に、第3動輪が兵庫県三田市の「はじかみ池公園」にそれぞれ保存されている。大田原市の画像はこちら、三田市の画像はこちら、小金井駅前にあるこの動輪の反対側(第二右側)の画像はこちら
エピソード
同機のひとつしたの弟機の39号はともに金沢に配置されたがSLブームの晩年には梅小路にあって山陰本線京都口最後のC57として脚光を浴びた。梅小路のあとは一転南九州の鹿児島区に移動し、最後の活躍をしたが保存はならなかった。