2021年3月から11月まで再整備が始まっており、かなりきれいになってきました。(現在は整備中のためホームや内部には入れません。フェンスの外から撮影)
渋谷駅からバスもあり、「自衛隊中央病院前」で降りればすぐ公園の入口で、そこから2分ほどのところに展示されている。小倉工場式切り取りデフ(門鉄デフ)装備のD51としては唯一の保存機であり貴重なものである。あちこちに補修を施されているが定期的に塗装整備が行われているようで外観は比較的きれいな状態。また後部にはこれも貴重な緩急車(ヨ14740)も連結されて展示されている。
なおホームと反対側(公式側)は柵内はヒキがないので外側から撮影するには広角レンズの使用か柵外からの撮影が必要となるが夏場は木々の緑が多くアングルには少々苦労する
この説明板には保存の経緯や意義などを記してあり、あとの2枚にはD51の諸元表と272号の経歴などが記されたものが展示ホームに建てられている。
定期的に整備や塗装が行われているので見た目は綺麗に見えるのだが、あちこちの痛みは長年の青空保存を物語っている。配管類の磨きあげが施してあるのでこの金属類の明るさがやけに目立つ。反面運転室周りの標記類やプレート、銘板などにはやや物足りない部分も。運転室も窓には柵が設けられ、室内はカバーで覆われ入室できないがいずれも度々のいたずらや盗難などを防ぐ上でのやむをえない処置なのであろう。
この元空気溜めには「54-3-8 O・N」の標記があるがやはり奇妙なものである。日付けは最近(といっても26年前だが)の整備時としても「O・N」とは何であろう? ひとつ想像できるのは、このカマが最後に保存のために整備されたのが大宮工場であり、おそらく保存時には『47ー10 O・M』(O・Mは大宮工場の略号)と標記されていたはずである。「O・M」にしても工場での検査済み標記ということではないが、保存車には往々にして最後の整備地で最後の全検地とは別にこういった書換を行っている例が多い。そこで保存後の整備の際、期日の変更はともかく整備業者がその下のアルファベットの意味がわからずそれに似せて「M」を「N」と間違えて(おそらく判別できない程度に薄れていたのであろう)書き換えてしまったのではないだろうか。
この考察には少々無理があり、すでに48年にここに展示されている同機にその後の補修などで大宮工場が関連しているとも思えないのだが、2005年当時の文章としてそのまま記しておきました。
昭和48年(1973)の1月に大宮を訪問した際、解体場の引き込み線に蒸気機関車の廃車体が置かれていた。「ああD51か。またどこからか運ばれてきて解体されるのだろうな。」と思って見ていたが、よく見ると門デフを付けている。さらにペンキ書きのナンバーも「D51272」と読める。これは昨年厚狭で会ったカマではないか!そう思うと「なぜわざわざ厚狭のD51が?」の疑問が湧いたのだが、これはやはり保存のための整備をするため運ばれてきたのだろうと考えた。この一ヶ月後に無事この廃車体に見えた272号は世田谷公園に運ばれたのであった。
※逆光でなおかつ線路外からの撮影のため、画質が良くありません。
昭和14年(1939)8月7日 川崎車輌製(製造番号2150)。広島に新製配置され、その後小郡・柳井と山陽本線西部の機関区を移動。昭和29年に九州に渡り熊本区を中心に鹿児島本線で活躍した。その間の32年11月に小倉工場にて切取りデフ(門鉄デフKー7型〜関分類)を装備している。昭和45年に周辺の電化などによって再び本州に戻り、厚狭区に配置されて美祢線で働く。廃車は同区で昭和47年9月30日であった。
主な配置履歴昭和16小郡 22柳井 23柳井 30熊本 36熊本 42熊本 43熊本 45熊本 46厚狭 47厚狭 47−9−30厚狭区廃車
同機の兄弟機は前後とも解体されてしまっているが、兄の271は272が九州へ去ったのちも山陽路に残り、晩年は再び厚狭区で再会している。(271は48-5-24廃車)弟の273はこの2両とはあまり縁は薄かったようだ。なお272号に一番番号の近い保存車はふたつ上の270号(秋田県保存)である。
同園内には「もう一両のD51272」がいる。これは5インチゲージのライブスチームで、蒸気をあげ客車を連結して園内の専用コースを一周しており子供達に人気がある。現在は環境対策や整備事情などによりバッテリー式に改造されてしまったが、いまも定期的に(シーズンによっては増発)走っている。近年はC5757号も同僚に加わった。このナンバーは同じ区内(大蔵運動公園)に保存されている名機C5757号にあやかってのことだろう。保存機C5757の画像はこちら
.※リンクしていただいているTADA様の「汽車・電車1971〜」の保存機のコーナーにも同機の画像がありますのでぜひ御覧ください。