5月の木曽路行から三ヶ月あまり立ちいよいよ夏休みが近付いてきた頃、私はまた汽車の撮影計画をあれこれ考えていた。この年(昭和46年ー1971)秋のダイヤ改正とともに実施される無煙化の予定は昨年秋(45ー10)の首都圏の無煙化や呉線・鹿児島電化による大型蒸機の引退という大規模なものは計画されてはいなかったが、それでもやはりSLにとっては厳しい状況が続いており、無煙化の波は各地に押し寄せていた。大きなところでは奥羽本線(秋田ー青森)の電化によるC61・D51の北東北からの引退、そして憧れのC62重連「急行ニセコ」もついに最後を迎えるはずであった。
当然それら消えゆくカマたちに会いにいきたい!と考えるわけだがやはり周囲の状況はそう甘くはなかった。「ニセコ」が走る北海道はあまりに遠く、東北にしても九州にしても中学生の一人旅はまだ早いといった親の判断もあり許可はおりなかった。また宿泊にしてもユースホステルなどがあったけれども考えもつかず、結局作夏も世話になった北陸の親戚宅をまた利用させて貰うことで、そこをベースに撮影へ出かけることで何とか夏休みの撮影旅行の許可がおりたのであった。
さてそこで「何処へ行くか?」であるが、もっとも近い七尾線もまだSLは残っていたので再訪問はしたい。他はどうかとあれこれ調べたがなかなか近距離のところには煙は残っておらず「早朝出発の日帰り」や「深夜出発」などけっこう変則的なプランにならざるをえなかった。ただまず西へ向かう道すがら、どうしても関西本線の加太越えは訪問したいと思っていたので、まずそちらへ寄ってから北陸へ向かうことにした。したがって旅立ちは東京から夜行列車で西下というスタートとした。
※この「汽車の思い出」をアップするにあたり、旅行の思い出を夏休みの宿題(自由研究)にしようと帰宅後まとめた『縦断撮影記』がぼろぼろになってはいるが残っていました。そこで手許の撮影記全文を公開するつもりにしましたが、長文に加え内容も不必要な部分が多いため、この記録を元に画像や資料を加えたものに変更いたしました。なお当時の思い出を語るうえで可能な限り撮影記の文章も挿入することにいたしました。中学生の文章で表現および記述に拙い部分も多々ありますが御容赦下さい。
46ー8ー18水 東京20:30ー201レ急行「紀伊」王寺・鳥羽・紀伊勝浦行→車中泊
※12号車(最後尾)6B席
今回の旅立ちは急行「紀伊」の指定席であった。関西本線を朝から撮影するには名古屋から関西本線に入るこの列車が一番効率が良い、と当時の撮影地ガイドの多くには書かれてあったのでこの列車(寝台専用だが一部に座席指定車が連結されていた)を選んだわけだが、全車指定のため一週間前に近くの駅で3時間あまりも並んでしまった。当時はこれが当たり前だったのだが、お盆の時期もあってさすがに苦労したのを憶えている。
『東京を定刻に発車した急行「紀伊」はそろそろ更けだした夜の京浜をひた走っている。車内は思ったより空いていてこの12号車も50%ぐらいの乗車でちょっと淋しかった。(中略)大船からもう一人ファンが乗って来た。こっちは中学三年で行き先は僕と同じ。こうなるともう友だち同然になり、あらゆることを話し合った。結局この子とは一日中一緒に写して歩くことになった。(以下、彼をK君と略す)・・・。』
車中で知り合った同好の士(やはり「紀伊」利用というのが面白い)とともに過した車中であったが、話に夢中でシャッターをきることはなかった。いつのまにかまどろんだようだが名古屋での機関車交換を記録しているのでそれほど眠ったわけではなかったのだろう。また亀山で小一時間ほど待ち合わせがあり、夏とは言え待合室が寒かったことを憶えている。ただSLのことを語り合える友がいることでひとり旅先の駅で夜明けを待つ心細さは味わうことをせずにすんだのは何よりだった。
『そろそろ東の空が白みはじめた頃、K君と僕は亀山駅の始発で撮影地ー加太へ向かった。天候は依然悪く雨も強くなってきた。車内でもう一人のSLファンと知り合い、その人とも行動をともにすることにして、ともかく加太という駅で下車した。しかし雨はまだ止まず、撮影には最悪のケースになってきた。しかしここまできた以上撮影を断念するわけにはいかないので、駅付近で2・3本撮ったあとバスで撮影地へ向かった・・・。』
雨の加太駅に着いたのはようやく朝を迎えつつある6時少し前であった。当初の予定ではシャッターをきれる明るさならすぐにでも有名な「大築堤」へ向かうつもりであったが、昨夜来からの雨はいぜん降り続いており、なかなか待合室から飛び出す気にはなれなかった。そうこうしているうちに朝夕のみとなってしまっていたSL牽引の定期旅客列車が相次いで来る時間となり、逃してはいけない!と気を奮い立たせ、ともかく駅進入や発車など、最低限のスナップをこなし、何とかこの旅行の撮影をスタートしたのであった。
※撮影記の文中には「バス」とあるが、確か駅前に国鉄バスの停留所があったはずである。まったく記憶が抜け落ちているがおそらく適当な便があったため撮影地近くまで乗車したのであろう。もちろん現在は周辺にバスの便はないはずである。
“加太越え”の撮影名所といえば当時のガイドでは必ず掲載されていたのが加太駅と中在家信号場との間にあったこの築堤である。通称「加太の大築堤」とも呼ばれていたが、私たちは「ちくてい」という言葉や読みをこの地名で覚えたともいっていいだろう。
『・・そして8時50分、下り781貨物列車の汽笛が鈴鹿山地にこだまし、雨の中を勇壮なドラフトを響かせて築堤を登ってきた。最後部に補機を従えて登ってくるありさまはまさに2台の鉄の塊が協力して峠越えに挑んでいる姿だった・・・。』
大築堤での撮影は以上のように記してあったが、あらためて調べてみるとここでの最初の蒸機列車撮影は8時頃の上り貨784レであった。その後ダイヤによれば上下各一本の貨物列車(781レ・262レ)があったはずだがネガには残っていない。この辺の記憶は曖昧だが、とにかく私のネガに最初に登場する「加太を越える」列車は上記にアップした荷41レだった。
お昼近くになって大築堤での撮影も一段落し、アングルも変えてみたくもなり次の撮影場所へ向かうこととした。もっとも本来の計画ではもう少し早い時間でここは切り上げて加太駅に戻り、DCで柘植へ出て午後は中在家あたりで撮影をしているはずであった。あいにくの天候でさらに遠くへの移動の気力が失せたのか、大築堤での成果に満足してしまったのかはわからないが、若干の疲れもあってあちこち足を伸ばすのが辛くなってしまったのかもしれない。とにかく帰りは線路沿いを歩きながら来た列車を撮影しつつ駅へ戻ろう、ということにした。
しばらく歩いた田んぼのあたりで上り貨786レがやってきた。先頭はD51750[亀]で後補機も付いているがすでに峠を越えてきたためか、のんびりとぶらさがっているようにも見えた。後ろにいたのはC58だったのが意外だが、あとで調べるとこの列車は亀山区のC58が信楽線の運用を済ませて帰区するのを兼ねてのものだったらしい。
この列車と加太で交換してきたのが下り貨6785レで、かなり遠くから汽笛やドラフトが響いてきた。駅から大築堤、そして加太トンネルへと登り勾配は続いているので周囲が田園風景とはいえカマは力強く近付いてきた。ナンバーはD51613[亀]+後D51832[奈]だった。
このあとも上りを※2本程スナップしつつ駅に戻り、ひとやすみしたあとは駅周辺でもうひと頑張り撮影をすることにした。(加太越え その2へつづく)
※荷44レ・・D51906[奈]、貨788レ・・D51614[奈]+D51882[奈]