穴水駅に戻り、構内で一息ついているC56124をスナップする。三菱製の222番目を示す製造銘板が印象的であったこのカマは、ここ七尾線の人気者で、映画やテレビなどにもたびたび出演していた。そのせいでもないだろうがここの無煙化後も生き残り、最後は信州の木曽福島機関区で入換えなどに働き「本州最後の稼動C56」の1両となった。幸いにも保存されいまもその姿を見ることができる。
相変わらずの曇り空ではあるが、この166レが長時間停車をしている間に上り列車で先行し、また走行写真を撮ることにし、ガイドでは「能登路で海をバックにSLが撮れる」とよく紹介されていた西岸ー能登中島へ行ってみることにした。
『穴水での撮影を終えて今度は場所を能登中島に変えた。ところが止んでいた雨がまた降り出し、列車を待つ間にビニールのレインコートは着てはいたもののズボンと靴はびしょ濡れになってしまった。でもそんな苦痛に耐えながら待っていて汽車が来た時の感激、思わず「待ってましたぁ!」という声がもれてしまった。』
能登中島では166レの他にここで交換する臨貨のスジにも期待していたのだが、どうやらこちらは運休のようで、結局C56124の166レの到着と発車だけになってしまった。しかしながら雨の中も頑張るC56は美しく、また発車シーンも迫力があってじゅうぶん満足のいくものが記録できた。これでほぼ今日の行程は終了し、また七尾に戻って上りの「ふるさと列車」乗車を楽しみ金沢へ帰るだけとなった。
七尾1552/59ー◆9302レ急行「ふるさと列車おくのと号」→金沢1727
金沢1747ー596M急行「立山3号」大阪行→小松1808
金沢1747ー596M急行「立山3号」大阪行→小松1808
昭和45年(1970)10月3日運転開始。当初の区間は穴水ー珠洲間で、能登線には正式には初の蒸気機関車の入線であった。初代牽引機(C11の牽引区間)は稲沢一区から転属したC11272号、ニ代目が九州・行橋から来たC11300号、そして三代目が広島からのC11328号だった。ちなみにこの3両のC11たちが300を中心として何故か28番違いとなっているのも偶然とはいえ面白い。
昭和46年(1971)4月29日より金沢まで運転区間を延長(金沢ー七尾ー穴水は臨時急行扱い)、金沢ー七尾間はC58140が専用牽引機となり、C11は七尾以遠を担当した。従って七尾ー穴水は臨時ではあるが「C11牽引急行」ということにもなった。
乗車客数にも翳りがみえ、また運行する機関車の老朽化などの理由でこの「ふるさと列車」もまだSLブームは続いていたものの48年度で運行を終了することになった。その最終運行は昭和48年(1973)9月30日で金沢ー穴水は通常の4両に2両増結して6両で運転された。金沢ー七尾をC58140+C56159の重連、七尾ー穴水はC56124+逆C11328、穴水ー珠洲は逆C11328というようにバラエティ豊かな牽引で最後を飾った。
※乗車実績その他
初年度・・45ー10ー3運転開始ー11ー29までの総乗車人員は7274人(金沢局調べ)、乗車効率は運転日数19日の平均では下り106%、上り72%だった。(鉄道ファン119号 71ー3より)
運転再開・・46ー3ー6ー4ー25までは穴水ー珠洲間、4ー29以降は金沢ー珠洲間に延長して再開した。客車を4両に増強、いままで半車だった「お座敷食堂車」を新たに松任工場でスロフ53を改造、全車畳敷きとし各部も意匠を凝らした改造がなされた。1号車が食堂車で前述の通り内部をすべてお座敷に改造し民民芸品・パネル・観光写真やのれんなどで装飾してある。2ー4号車は車体の赤帯とともに車両ごとに室内色を変え、同じく民芸品・観光写真などで装飾を施してある。またそれぞれの車両に「のと」「つくも」「このうら」「そそぎ」と奥能登の地名の愛称も付けられた。(鉄道ファン 121号71ー5より)
この列車を牽引した蒸気機関車たちであるが、「お別れ運転」に参加したC56を除いた4両は残念ながら現存していない。C58140は保存されたものの近年老朽化のため解体されてしまった。ただC11328をモデルにしたライブスチームのC11が金沢工業大学の手で製作され、伊豆修善寺「虹の里」のロムニッ鉄道で保管されているほか、同号のものと思われる動輪も某所に存在している。
※ふるさと列車を牽引したC11については拙作「C11 70年の生涯を語る」(TADA様主宰『汽車・電車1971ー』にて公開)の第3部 関東・中部・東海・北陸編にも記述してあります。