小海線の撮影で気を良くしたわけではないが、3月も過ぎ春休みを迎えたのでまた煙を求めて出かけたくなってきた。今回は少し遠出をしたい。鉄道ファンの「撮影地ガイド」を見ながら計画をたててみるのだがやはり実行するには問題が多かった。遠出となると中学生にはなかなか許可が降りない。今回もA君と一緒に行くつもりだがそれでも「夜行でしかも2〜3日の遠出」は無理であった。そこで折衷案として、宿はA君の親戚の家にお願いするとしておじさん(だったかはっきりしないがとにかく付添い)も同行するということでようやく納得してもらった。(付添いの人が最初からいたかどうか今は思い出せないがとにかく一部でもいたような気がする)目指すは南東北、まだ雪の残るところであるが果たしてどうなるか‥‥。
昭和46年(1971)3月のある日、僕たちは上野23時08分発の酒田行急行「出羽」に乗車した。
夜行列車での一夜が明け、僕たちは奥羽本線の米沢駅に降り立った。今日はここ米沢から坂町までで大正の老兵・9600が活躍する米坂線を訪ねることにした。当時この線に東京から行くにはこの「出羽」が定番の列車であり、どのガイドブックでも米沢で米坂線の一番列車に接続するこの列車で撮影に入ることを勧めていたのでそれにならったわけだ。
夜行の車中や周囲の様子などは一切記録にない。興奮していたのではあるが早々に寝入ってしまったようだ。米沢のホームの寒さが記憶に残っている程度である。
米沢からは15分ほどで接続する長井線(現・山形鉄道フラワー長井線)長井行きに乗車したのか、そのあとの米坂線の坂町行(121D)にしたのか覚えていない。いずれにしても長井線が分岐する今泉駅まで乗車したのは間違いない。ここから今回の蒸気機関車撮影旅行が始まった。1141D(長井行)が接続をとる121D(坂町行)は今泉駅で30分ほど停車する。
今泉では側線に停車中の貨161レが59663(坂)に牽かれていた。早速カメラを構える。これが米坂線で最初に出会った蒸機・9600となった。目の前にいる機関車に早朝の寒さも吹っ飛ぶほどの興奮を覚えたものだった。
28分もの停車で長井線の接続をとり、再び121Dに乗り込むと三つめの羽前椿では上りの米沢行き122レと交換待ちで停車。これも9600の牽引であり、こちらが先着・後発となるので到着と発車を撮影する。こちらも坂町区の59661(坂)であり、先ほどの59663とは二番違いの兄弟機であった。
羽前沼沢に着くとちょうど交換待ちをしていた上り貨7160レの49681(坂)をスナップすることができた。このカマは当時の米坂線では人気のあったカマで、正面・側面に形式りナンバープレートを持ち前照灯もシールドビーム化されておらず整った顔立ちだった。(もう一両、前面に旧字体の形式入りプレートを持ち、しかも一桁ナンバーの9634(米)が人気だったのだが訪問する数年前に普通のものに交換されてしまっていた。)
さて、今日のメインの撮影地、宇津峠だが、主に一つ前の手ノ子から羽前沼沢を経て伊佐領までの間で沼沢までに25‰の上り勾配があり、宇津トンネルを前にした築堤が好撮影地となっていた。そこは後回しにするとして、まずは伊佐領側から撮影を始まることにした。そこで羽前沼沢駅から国道をひたすら歩き、コンクリートの明沢川橋梁の脇にたどり着いた。
ここで待っていると79607(米)の上り客124レがやってきた。煙もまあまあで幸先良いスタートになった。続いて先ほど今泉でスナップした下りの貨161レ・59663(坂)を撮影と順調に進んでいった。