直方での撮影を終え、DCで隣駅の勝野へ向かった。ここから少し直方寄りの「岩鼻」と言う場所は伊田線(現:平成筑豊鉄道)が分岐するため筑豊本線と合わせて列車密度が濃く本数を稼ぐには良いところとガイドに書いてあった。風景としても伊田線の方はすぐに長大な嘉麻川橋梁を渡るのでまずまずといったところだった。ダイヤと首っ引きになりながら来る列車を待ったが気がつくと煙と汽笛が聞こえ、アングルを考える暇もなかった。
※以下の伊田線の撮影列車は当時のダイヤと撮影メモから推定していますが、ダイヤに載っている列車の撮影カットがなかったり、運休や勘違いもあるようなのであくまで推定です。
勝野12:54ー737D→飯塚13:14
勝野からまた少し筑豊本線を進み、上山田線が分岐する飯塚まで足を伸ばした。ここではホームから貨1894レがD6046に牽かれて停車しているのをスナップできた。背景に筑豊名物にもなっていたボタ山が入る撮影スポットで、「これぞ筑豊」という風景を堪能した。
飯塚14:41ー2742D→直方15:04
筑豊本線のもう一つの有名撮影地は飯塚から先の「冷水峠」なのだが、なにぶん列車本数も少なく、今日の宿泊地に向かうにはここまでが限界だったので断念し、また直方方面へ戻ることにした。構内にはまだ多くの煙が上がっていたので二、三スナップし、上りの客車列車に乗って蒸機の旅を味わうこととし、D511155の牽く744レに乗り込んだ。(鳥栖から直方へ転入してきたD51807も撮影したが逆光になってしまった。)
直方16:26ー744レ→若松17:24
若松区は訪問当時8620、9600、D51など17両前後の配置があって筑豊本線ほか支線の運用についていた。こちらも当然機関区での撮影は制限されていたのでホームからの撮影となった。若戸大橋をバックに夕日を浴びて佇む機関車たちが綺麗だった。
折り返しの間の短い時間ではあったがホームから若松機関区を撮影でき、満足しているとホームの反対側に蒸気機関車の廃車体のようなものが留置してあった。近寄って見ると正面のナンバープレートはなかったがそこには白文字で「C5519」の文字が!
C5519は46年4月に転入してきたC57170と交代で休車となって運用から外れ、5月に鳥栖へ移動して据付ボイラー代用になり、3月に再び若松に戻ってきており、配置表では休車も解除されているようだが再起の気配はなかった。ただなかなか廃車解体にはならず、最終的な廃車は1974年6月だった。このカマは最後の若松区のC55の中では唯一の標準デフ付きが特徴だった。
これで撮影初日の予定はほぼ終了し、まずまずの成果であとは今日の宿泊地へ向かうだけになった。今日泊まるのは鹿児島本線で博多方面へ行った福間駅から歩いたころにある『ユースホステル金剛閣』で、当時の若者の旅の宿といえば夜行列車以外は知人宅や縁戚の家などを利用するほか、やはりユースホステル(以下「Y H」)が一般的だった。まだ一人で遠くで宿泊などしたことがない私にとって、このY Hも初体験だった。新宿の京王百貨店にあった案内所で会員になり、スリーピングシーツなるものを買い、往復ハガキで予約して緊張しながらの宿泊だった。ちなみに中学生は当時まだ「少年パス」という枠になり、かなりの割引で泊まることができた。確か素泊まりなら350円だったと思う。
19時半とすでに外は日が暮れて真っ暗だった道をとぼとぼ歩いて行ったような気がする。初めてのY Hなのにこんな訪問でいいのだろうか?と考えたりもした。(徒歩約25分)いま調べてみるとこの場所は福間駅から約1.5キロもあり、よく19時過ぎにこんなところを歩いたものだと思う。
ユースホステルに宿泊すると押してもらえる「宿泊スタンプ」はそれぞれのY Hで工夫を凝らしたデザインで、これを集めて楽しむ人も多かった。
金剛閣ユースホステル
このY Hはお寺(海心寺)の一部を開放していたものであるが、現在はすでに廃業している。またこのY Hがあった宗像郡津屋崎町宮司は今は福岡県福津市となっている。