72年春 九州・山陰の蒸気機関車 その7の1

第七日目 昭和47年(1972)3月31日(金)
山陰本線で上り貨物列車を牽いて停車中のD51317[長] 人丸駅

(下関2330ー802レ急行「さんべ3号」より)→浜田0357 浜田0420ー823レ→人丸0822 D51+C57牽引(機番不明)
第一日目に「桜島・高千穂」で九州に直行せず、岡山で途中下車したのは北九州での撮影開始時間をずらすこともあったが、後半に山陰も回ろうという計画を立てていたからだった。そのために都合が良い切符のうち、山陰西部をカバーする『山口・秋芳洞ミニ周遊券』があり、そのもっとも近い発売地域が岡山か福山あたりだったからで、若干出費がかさんだがどうしても行きたいところがあったのでこんなコースをとったのである。夜行で着いた憧れの地浜田には未明の3時57分に着いたが、もちろんまだ1日は始まっておらず何もすることがない。浜田まで来たのはここで30分ほど待って始発の上り列車に乗るためだった。

浜田午前四時二十分発の823レは始発列車でD51の牽引だが、益田まで前にC57が着くという魅惑的なものだった。しかも益田までは全て通過という「暁の快速列車」ともいうべき存在だったが、残念ながらカメラに収めることはできなかった。眠っていたのか露出が取れなかったのかは覚えていない。ただ重厚な重連の汽笛を聴きながらの車中ではあった。ところが今日予定の美祢線に入る乗り換えの長門市駅を大幅に寝過ごしてしまい、慌てて時刻表をめくり折り返しのできる駅を探して8時20分、人丸(ひとまる)という駅で降りた。ここで交換待ちをしていた下り貨物のD51317[長]を撮影。今回初めてシャッターを切った山陰のD51になった。


 美祢線へ 

美祢の駐泊所で待機するD511022とD51518 ともに[厚] 

人丸0852ー834D→長門市0910 長門市0916ー4410D急行「あきよし」→美祢0951 すぐ接続の急行「あきよし」でようやく今日の目的地・美祢線に入ることができた

D511022は九州から転入したため門鉄デフ装備だった

美祢駅の構内は広く、側に石灰石列車を牽くD51の待機線があった。ここで数カット撮影してさらに南下し南大嶺駅を過ぎ、撮影ポイントの湯ノ峠(ゆのとう)駅まで行くことにした

美祢1036ー728D→湯ノ峠1104

途中の四郎ヶ原で交換した下り列車 D51520

※以下、牽引機の所属は全て厚狭区(厚)なので表記は省略


美祢線は山陰西部の陰陽連絡線で秋吉台国定公園や秋芳洞、湯本温泉などの観光地を沿線にもっていたが、古くは美祢付近の石炭を運ぶ目的もあり、その後美祢周辺で産出される石灰石を宇部方面の工場へ運ぶ専用線の役割に変わり、そのためまだ無煙化されていない当時は蒸気機関車の牽く専用列車が多数運行されていた。

蒸機列車が多く運転されているのは美祢以南の厚狭方面で、勾配や景色の良い長門市方面は通常の貨物列車と僅かな旅客列車だけで本数も少なかった。撮影ガイドでもやはり美祢ー厚狭が中心で紹介されていた。そして「南大嶺駅では一日100本もの蒸気機関車牽引の列車が発着している」との記事がとても魅力的で、ともかくたくさんSLの列車を撮影したいと考えていた当時は何よりの誘惑だった。

 湯ノ峠付近 

ナメクジのD5118が牽く下り列車

この線で使用されている機関車は厚狭区のD51(かつては長門市口にはC58も)で当時の配置では20両ほどでほとんどがクセのない標準型ばかりだが、一次形や戦時形も何両かいた。また石灰石のピストン運転で本数は多いものの、厚狭からの空車を送る下り列車はD51は逆向運転で、美祢方面からの積載列車だけが正向運転なのだった。さらにその上り列車は下り勾配がほとんどなので積荷があっても煙があまり期待できないということもあって撮影には難しいものがあった。したがって訪れるファンも列車本数の割に少ないようで、この日も沿線で撮影しているファンはあまり見かけなかった。

続いての下りもD51152の逆向き

さてここで撮影なのだが、この線の運行形態で問題なのがD51のピストン運行はいいのだが美祢から石灰を積んだ上り列車は正向だが主に下り勾配なので煙は期待できず、一方厚狭から空の貨車を牽いてくる下り列車は逆行がほとんどでせっかく煙をはいてくれるのだがアングルとしては物足りないものだった。とりあえずガイドに紹介されていた湯の峠(ゆのとう)駅付近に決め、川沿いを歩きながら来た列車を撮影することにした。 最初にやってきたのは下り貨(ほとんど石灰石運搬または空車回送の列車)で、もちろん逆行運転である。煙を気持ちよく吐いてやってきたのは貨5681レのD5118[厚]で、ナメクジだがその特徴は捉えられなかった。続いての5891レのD51152も白煙だが何せ逆向きなのでテンダだけが目立つ。遠くSカーブの良い区間なのだが惜しいところだ

やっとやってきた正向の上り5682列車はD51518、先ほど美祢でみたカマだ
 
上りの2本目5684レはD511022、こちらも先ほど美祢でみたカマ

ここでは二時間ほどで本数はそこそこ撮れたのだが、今ひとつスッキリしない感じで切り上げ南大嶺へ戻ることにした


湯ノ峠1307ー731D→南大嶺1326

 南大嶺 

南大嶺はこの線の中心駅で当時(昭和46ー47年頃)のSLファンの中では「一日百本以上のSL列車が運行する駅」と知られていた。さらに大嶺への一駅分岐する線では全て蒸機牽引の混合列車が走っているという(実質は客車1両から2両のみの運転)夢のような光景が見られるということだった

南大嶺駅でいただいた「SL時刻表」確かにすごい本数だ

駅周辺には特に有名撮影地というようなところはないが、一応美祢方面へ歩いた大嶺への分岐あたりが良いだろうと思い、そこで何本か撮影した

逆向きで客車一両で大嶺へ向かう D511080 戦時型のカマボコドームに簡易型のデフが目立つ
この列車は南大嶺13:40発の混627レだと思う
こちらは美祢方面へ向かう下り5991レ 例によって逆向
駅発車なので煙は出ていた 機番が見にくいが前照灯がシールドビームなのでD51507だと思う

湯ノ峠でバック運転を見たD51592が今度は正向で上りの発車を待つ。テンダとともにエンドビームがトラ塗りになっている。このカマも広島工場スタイルのシンダエプロンだが後部標識灯は埋め込になってはいない。(廃車後静態保存されている)

 
美祢の留置線には今朝と違ったナンバーが待機していた

南大嶺1436ー733D→長門市1523

美祢線の撮影を終え再び長門市へ戻り、待ち時間があったので駅に隣接した長門機関区を訪問することにした。当時はD51のみが配置され山陰本線西部を主に担当していた。美祢線に入る運用はなく違った番号のカマに会えるのがよかった

転車台に乗るD51798
鉄道省浜松工場製造のプレートが残るD51533 関東の新鶴見から下関を経て転入
蒸気機関車のいる機関区の風景 給砂台や石炭を移動するクレーンなども貴重な存在
一見、D52を思わせる風貌のD51385 標準型だがテンダを戦時形と交換したためさらに似通ったスタイルに見える(廃車後は千葉県鎌ヶ谷市に保存されている)
待機中のD51227、こちらは鉄道省小倉工場製 架線注意札右横ずれ シンダエプロンや後部標識灯埋め込みは広島工場改造
鉄道省工場製の標準型としてスタイルがそれほど崩れていない一両
かつて八王子区にいて八高線で良く見かけたD51911がここにいた 十字の煙室戸ハンドルが特徴
 
732と385のプレート付近 どちらも換算標が手書きか鉄板のみだが他の表記などは残っている
 
D51227正面 キャブには製造所「昭14小工」の簡易プレート付き
長門市駅のDJスタンプは珍しい緑色だった

これで長門区での撮影を終え、今日の宿泊地浜田へと向かい3月31日の行程を終えた。宿は駅から少し歩いた「浜田ユースホステル」である意味ここに泊まりたいという思いもあって予約をしておいた。遅い時間だったがペアレントさん達が親切に迎えてくれた

長門市1631ー802D急行「さんべ2号」→浜田1912

長門機関区配置(昭和47年3月31現在)1両除いてすべてD51 ★は今回撮影したカマ
xx196・214・★227・239・243・★317(朝)・285・★385・x415・418・★533・535・628・692・706・715・★732・★798・803・878・★911・xx1016・1091・xx1106・(xxC58338)


その7の2へ 汽車の思い出目次へ トップページへ
『鉄・街・道』掲示板