昭和45年12月28日
木曽福島14:56ー832レ名古屋行→野尻15:53
木曽福島の2番ホームに入ってきた832レはD51125[中]の牽引だった。訪問当時木曽路で活躍していた中では最若ナンバーのD51である。(こののち酒田から101号が転入する。また中津川・木曽福島両区とも以前にはもっと若い番号機や一次型などの配置記録はある)午後3時前、機関区横に移動した787号などに見送られて832レは発車した。この列車では上松と須原で下りの蒸機列車と出会ったはずだが記録にない。もう対向列車ではカメラを向ける気力がなくなっていたのだろうか?約1時間のD51列車の旅を楽しんだはずだがこのあたりではネガに記録がないと印象も思い出せないのが残念だ。
野尻駅はバックに木曽の山々を望み、このあたりではお馴染みの貯木場などもある木曽らしい駅のひとつである。古くは中山道野尻宿があり、また周辺へはかつて森林鉄道も伸びていた。ここで今日最後の撮影ということで、停車中の貨673レとその発車、16時過ぎの上り貨4652レ(後補機付)を狙うはずだったのだが673レは運休なのか姿が見えなかった。陽も落ちつつあり平地は山陰となる木曽谷ではもうスローシャッターでしか撮れなくなってきた。そんなあせりが出て来るなかで福島方から4652レが到着した。少々停車のようなのでスナップをする。先頭のカマはこれも会ってみたかったD51200[中]。まだ本格的な動態保存候補機となってはいなかったがどことなく落ち着いた風格を漂わせていた。私たちはこの集煙装置を付けた200号の姿に強い愛着と印象を持っているので、現在の梅小路にいる(それも煙突を短くカットされたままの)200号にはどうも違和感を感じる。オリジナルより長く働いた場所に合わせたスタイルの方がしっくりいくというのも全国で活躍したD51ならではのものとも思うのだが・・・。
野尻16:20ー831レ塩尻行→木曽福島17:35→塩尻18:40
4652レが後補機(番号不明)とともに出てゆき、これで私たちの撮影もほぼ終了となった。すっかり日も暮れあたりは夕闇が漂っている。塩尻へ向かう最後の列車は831レである。16時20分にD51849[中]の牽かれた鈍行列車は一路木曽路を北へ向かう。上松では上下のDC急行に道を譲るため少し停車した。スナップがてらホームに降りると広い構内の片隅で入換を終えて休んでいるC12199の姿があった。ぽつんと1両だけ取り残されたような光景が、あたりの夕闇の中でとてもさびしそうに見えた。まだ彼が役目を終えるのは数年の月日があるのだが、もうこれですべて終わったかのような哀愁を感じたのである。
夕暮れの構内で何を思うかC12199。ホームの駅名灯がやけにまぶしい。
17時35分、木曽福島に戻ってきた。W君と私はもうすることもなく座席に体をゆだねていたのだが、ここで思い付いたようにカセットテープレコーダーを取り出した。カメラでの撮影はもう出来ないが、蒸気機関車の音を録ることならまだできる、ということである。当時はまだ贅沢品であったテレコではあるがとにかく一番安い(当然ラジカセとかステレオ機能はない)機種を二人とも持って来ていた。しかし何故か朝から録音はしていなかった。手が回らなかったのかもしれないが、機能のわりに図体のでかい機械を持ち歩いたまま何もしないのではもったいない。ようやく落ち着けたので、ここからわずかな区間だが「汽車の音」と録ってみることにした。とにかく客車の窓からマイクを出して、風切り音など慣れない現象にあいつつも831列車を牽くD51の音を後で聞こう思ったのである。発車の汽笛とともに車内アナウンスが流れる。『ハイケンスのセレナーデ』のお馴染みのチャイムに続いて「おまたせいたしました。次は原野です。原野・宮ノ越・薮原の順に止まってまいります。原野到着は・・・」と落ち着いた口調の車掌氏の声、ベテランを思わせるこのアナウンスの合間にD51の汽笛が鳴る。もうまもなく消えてしまう蒸機牽引の旅客列車というものが、当たり前の風景とはいえ私たちにはとても貴重に思え、そしてほのかな旅情を感じるものへと転じていった。
鳥居峠を越え、奈良井・木曽平沢と過ぎ、贄川を過ぎれば木曽路ともお別れである。日出塩の駅を出たところでもう塩尻到着のアナウンスが入った。いよいよ旅も終わりなのかなぁという思いがこみあげてきた。するとアナウンスの向うで「ボー!、ボッ、ボッ!」という絶気合図が響いてきた。この夜空に響く汽笛の音にやっぱり「蒸気機関車っていいなあ!」とW君と顔を合わせてうなづいた。列車が右にカーブをきると間もなく塩尻の構内が見えて来る。窓から顔を乗り出すと、何と先頭には2台のD51の姿があった。「重連だ!!」と思わず叫んでしまう。まさか旅の最後に乗った列車が重連になるとは思っても見ない幸運のような気がした。確かに先ほどから聞いた汽笛の数も多かったようだがいつのまに連結されたのだろうか?ダイヤでも運用でもこの831レは定期では補機は付かないはずなのだが・・・。しかしそんなことは当時は考えず、ただD51重連の列車の旅を楽しむのに夢中であった。後に録音したテープを聞いてみると、確かに2両の汽笛が聞こえるのであった。細切れで音質も良くない初めての車上録音だったが、この音もまた私の撮影旅行んの原点ともいえる貴重な思い出の品となっている。
831列車は18時40分、塩尻駅2番線にゆっくりと滑り込み、私たちの長い一日の撮影行もこれで終わりとなった。
塩尻21:27ー424レ新宿行→新宿04:23
塩尻に到着し先頭へいってみる。そこには福島で連結された前補機のD51921[木]と独特のテンダを持つD51849の2両が仕事を終えて蒸気を吹き出していた。知らず知らずのうちにD51重連となっていた831列車での旅に満足感を感じ、私たちは2両のD51に「御苦労さん!」と声をかけて待合室へとホームを歩いていった。あとは新宿へ帰るだけである。まだこの時間なら今日中に帰れる急行もあるのだが、なぜか それには乗車しなかった。急行券を買うお金がなかったのか、はたまたD51と別れるのをできるだけ遅らせたかったからなのかは忘れてしまったが、とにかくまた3時間あまりを塩尻で過し、午後9時半の424レで帰京の途についたのである。新宿到着は明朝4時、夜行鈍行の車内で私たちは今日一日出会ったD51やC12の話をしながら初めての遠出撮影旅行の思い出をかみしめているうちにやがて眠りについたのであった。カメラに収められたこの旅最後のひとコマには、淡い光に照らされた小野駅の駅名標が写っていた。
木曽路のD51 70年冬の旅 おしまい
後記
この撮影行のことを振り返るたびに思い出す歌(曲)がある。それはタートルズというアメリカのグループが歌っていた『ハッピー トゥギャザー』というポップスである。アップテンポの軽快なリズムの曲であるがもちろん木曽路ともD51とも関係はない。なぜ印象に残っているのかというと、あの831列車の録音の後にこの歌をラジオから録音していたからである。塩尻の到着音の次は45年大晦日(31日午前1時)のニッポン放送「オールナイト・ニッポン」のオープニング。ディスクジョッキーは「カメ」こと亀淵昭信氏(いまやニッポン放送の社長である[のち退任して現在はフリー])でその日の第一曲として「ハッピー トゥギャザー」がかかったのだった。当時の中学生の洋楽と深夜放送への興味は蒸気機関車とともに楽しみのひとつだった。初めての遠出撮影行「木曽路のD51」を振り返るたびにこのポップスのメロディーも一緒に蘇ってくるのである。
備考
旅客列車の無煙化・・・何往復かの客車列車を牽引していたD51の運用は、訪問後の約四ヶ月後の46年4月25日に無煙化され、すべてDD51の牽引となった。(その後の「快速 木曽路号」などの臨時列車牽引は除く)
木曽福島のD51787・・・46ー4ー17に廃車となり、信越本線(現・しなの鉄道)御代田駅横に保存されている。保存画像
C56とC12・・・福島の庫内にいたC56102は上諏訪区からの借入機で、おそらくC1282(訪問当時休車ー46ー4ー17付で廃車)の代替機へのつなぎとして待機していたものと思われる。しかしながらC12199がよく働いていたためかあまり稼動した記録がなく、結局同じ上諏訪からC12171が正式に転属してきたため、特休のまま返却されてしまった。その後の福島区の入換え機として何両かのC56が転入した記録があるが、この102号の画像はあまり見られない。※「蒸気機関車」13号(76ー5月号)は木曽路のSL特集だが、この中の機関区めぐりで福島のC56102の姿が掲載されている。
訪問後の動向(46年夏まで)・・・46ー4の客車DL化などで3両ほどのD51が廃車の予定となっていたが、その対象となったのが中津川では266(4ー15)・501(6ー21)・851(6ー21)、木曽福島では787(4ー17)・862(8ー19)などであった。検査切れのための廃車で代替車が転入したものもあるが、このナンバーの中では266・787・862が幸いにも保存となった。反面、長工デフ付きの501、煙室扉上部切り欠きの851の2両の名物機は解体となってしまった。
おまけ この旅の計画ノートの一部(拡大)