下町の都電を象徴するような経路と風景を最後まで演出していたのが今回の28・38系統を始めとする錦糸掘車庫の管轄路線でした。46年までに廃止となった25・36系統のあと47年11月の「実質都電全廃の日」まで頑張ったのがこの2路線と29系統(葛西橋ー須田町)で、この3系統の行く風景をカメラで撮り、車窓を味わう毎日がしばらく続いたのがこの6ー11月でした。今回はそのうち28・38系統の東陽公園ー南砂町の専用軌道あたりの記録を紹介いたします。
28系統(錦糸町駅前ー都庁前)と38系統(錦糸堀車庫前ー日本橋)はともに日本橋方面から来て(38は撮影時は門前仲町までに短縮)この東陽公園前で28が分岐し38は直進して共に下町の風景の中を走り錦糸堀で再会(交差)していました。すでに地下鉄東西線の東陽町駅があるこの周辺は公団アパートが立ち並び、また高層マンションの建設も多くすっかり都心に近い商業・住宅地としての変貌を遂げつつありました。
「おすしさん」のサイトの38系統写真帳No17ー9(45年撮影)にもほぼ同じ角度からの画像がありますが、バックのアパートが建設中になっています。
東陽公園から次の南砂二丁目までは大通りを走っていた38系統はここから左折して城東電車時代の面影を残す専用軌道に入っていきました。南砂二丁目(南砂町四)=第四砂町小学校(南砂町一)=南砂町三までがその区間で、途中はかつて多くの鉄道車両を送りだした汽車製造株式会社(汽車会社)の東京支店の広大な跡地の中を行きます。もっともすでに再開発で左手には都営南砂住宅が立ち並びつつあり、右手には広大な空き地が広がっていました。
電停の表示が修正したように見えるのは、以前は「南砂町四丁目」であったからで、「町」と「四」を消して「二」を加えたのであろう。
専用軌道をしばらくゆくとこの区間のハイライト?ともいうべき国鉄(当時)の小名木川貨物線(正式には当時の総武本線の支線)の下を交差する場所がありました。線路はこのためいったん下がってすぐ登るというファンのいうところの「U字勾配」となっていてピュッゲルをすぼめながら走っていました。上を行く貨物線の方はダイヤなど思い付かない頃のことでいつ列車が来るのかもわからず、都電とのクロスがカメラに収められればなあ、などと思ったものでした。
橋の上の貨物線はどんな状態かな?と都電撮影のついでに築堤上に登って見た方も多かったのではないでしょうか?かつては汽車会社で製造された車両もここを通って各地へと運び出されたのであろうし、蒸気が健在な頃にはD51の姿も見られたことでしょう。しかし撮影時には貨物列車の運用はあるものの、殺風景な専用線のような雰囲気が漂っているだけでした。
南砂二丁目から続いてきた専用軌道もこの南砂三丁目でいったん終わります。38系統はまた車の交通量も多い道路を境川方面へ走らなければなりません。電停付近のお菓子屋さんなどやはりここも下町の風情をいっぱい残していました。
28系統(錦糸町駅前ー都庁前)と38系統(錦糸堀車庫前ー日本橋)はともに錦糸町駅周辺から下町の道路を別ルートで走り、東陽公園前で合流して門前仲町から永大橋を渡り都心の日本橋方面まで運行していましたが晩年はともに路線を短縮し、28系統は日本橋まで、38系統は門前仲町までになっていました。
28系統 都庁前ー日本橋は44ー10ー25廃止
38系統 日本橋ー門前仲町は46ー3ー18廃止
※弊コーナーの「第2回」では日本橋での38系統の姿を掲載しております。
今回の関連電停名ー38系統基準( )は撮影時点での停留所名
38・28【日本橋方面より】=東陽公園前【28合流・分岐】=南砂町四(南砂二丁目)=南砂町一(第四砂町小学校)=南砂町三(南砂三丁目)=境川【29合流・分岐】=北砂二=北砂三=大島一=大島三=竪川通=水神森=亀戸駅=錦糸堀【28が交差して錦糸町駅前へ】=錦糸堀車庫前【38起終点・29は須田町方面へ】