宿場時代の面影は少ないが町割りに名残を残している洗馬宿の本陣跡付近
洗馬宿は中山道と北国西街道の分岐点にあり、往時は貫目改め所もおかれ、本陣の庭の豪華さで名を知られるなどかなり栄えた宿場であった。しかし昭和初期の大火で宿内のほとんどの建物が焼失したため、街並の面影は薄れてしまったが、洗馬宿追分の道標や、歌にうたわれた細川幽斎肘懸松跡などが残り、わずかながら街道の雰囲気を残している。 ※大火…昭和7年(1932)4月6日のことで、全戸数240余のうち160余戸を焼失。
宿内の中山道には現在塩尻市のコミュニティバス「すてっぷくん」(宗賀線)が走っていて、宿場内には江戸方から「旧農協前」「洗馬駅口」「万福寺口」「洗馬公園」の四カ所のバス停がある
塩尻市地域振興バス すてっぷくん塩尻駅からほぼ旧中山道に沿って日出塩上まで一日約5往復、この他日出塩(本山宿)からさらに先の贄川や奈良井方面へ行く楢川線(ただし洗馬局前や洗馬駅口など一部のバス停には停まらない)のバスも同じく5往復程度運行されている。中央本線の列車が少ないので洗馬・本山・贄川・奈良井宿などを訪問する際には便利である。
洗馬宿の本陣・脇本陣は洗馬駅から街道に出たところからほぼ並んで建っていた。というよりどちらも広大な庭園や敷地を持っていたのが洗馬駅設置の際、その多くが用地としてとられてしまったため駅を降りた時点ですでに本陣の中に入っていたことになる。本陣は上の問屋も兼任し、三沢氏ののち百瀬氏が勤め、脇本陣は下の問屋を兼ねて志村氏であった。
その本陣跡にはコンクリート塀に沿って「洗馬宿本陣跡」と書かれた標示柱が立つ。その横には洗馬宿全体の説明板も貼られている。本陣の建物は無論ないが、跡に建っている建造物も昔の洋館風で味わいがある。
志村脇本陣跡には「洗馬宿脇本陣跡」の標示柱が建ち、敷地内には「明治天皇御駐輦之處」の石碑も建つ。明治初期には志村氏宅も有名で、その庭の豪華さで明治天皇も御巡幸の際、本陣ではなく脇本陣をよく利用されたらしい。
※洗馬局の風景印は「(あふたの)清水碑と緑柚水瓶、追分道標にキキョウと北アルプス」というもので、宿場にちなんだ図柄も入っている
このモニュメントは「中山道」の標示柱を中心に「洗馬宿」と彫られた石碑と「木曽街道六拾九次・洗馬宿」の文字と隣に広重の洗馬宿の絵を写したものをはめ込んだもので、周辺の塩尻宿・本山宿などにも同じ様式のものが設置されている。(浮世絵は当然、塩尻は英泉、本山は広重のもの)なお塩尻・本山はともに本陣跡の敷地に設置されているが、洗馬はスペースがなかったのか、この宿場外れの高札場跡に設置されている
高札場跡 ここ宿場の京方の外れ神明宮入口の南側に高札場があった。宿場廃止後は裁判所の出張所などを経て昭和34年(1959)までは旧宗賀村役場があった。現在この跡地は公園になり、中山道に沿って洗馬宿の標示柱やモニュメントなどが設置されている。