72年春 九州・山陰の蒸気機関車 その1

昨年の夏からしばらくは勉強に専念せねばならず、どうにか高校受験も終えそのご褒美というわけでもないがまた汽車撮影旅行のお許しが出た。できれば煙の多い北海道か九州へ行きたいが、この1年間でもすでにかなりの無煙化が進み、1971(昭和46年)中にはあのC62急行「ニセコ」も過去のものとなった。それでもまだ蒸機天国の北海道に行きたいが、流石に中学生の一人旅ではお許しが出なかったが「九州なら」ということでなんとか旅立つことができた。そこで1972年(昭和47年)春休みの今回の目的地は念願の九州とした。  当時、東京から九州方面への撮影には唯一直通する普通急行「桜島・高千穂」(西鹿児島行き) (九州ブルトレや新幹線、航空機などの選択肢は中高生にはなかった)だけであり、私もそれに乗車した。ただ今回私は何故かこの列車を途中の岡山で下車した。この辺りの蒸機はすでにほとんどなく、ただ「桜島・高千穂」だと北九州入りの時間が早すぎてすぐ撮影に入れなかったぐらいの事情しか思い出せない。(一つ他の理由もあったがそれは後述)


東海道を下る

掛川付近で一瞬見かけた保存C5849号
すれ違った豊橋鉄道の機関車牽引の貨物列車
この機関車についてはこんなエピソードがあります。謎のデキ
豊橋を出て車窓には飯田線のモハ52流電を
大垣駅では大垣電車区所属の入換のC11がいた

東京1000ー1101レ急行「桜島・高千穂」西鹿児島行→岡山2101 3号車オハ36 132


岡山21:55ー203レ急行「雲仙3号」ー広島0:46ー折尾5:28

岡山から乗車した急行「雲仙3号」で関門トンネルを抜け、初の九州入りを果たして最初に降りたのが折尾駅だった。 これから撮影に入る筑豊本線の折尾から中間にかけては当時の趣味誌の撮影ガイドで「折尾ー中間の四線区間」と呼ばれていて、途中のクロス部分を挟んで折尾側が方向別の複々線(西から筑豊本線下り・上り、折尾を通らず鹿児島本線門司方に直通する複線)、中間側が走行別複々線(上り複線・下り複線)となっており頻繁に列車が行き交うまさに「煙の王国」の感があった。
この区間を走る形式は多彩だったが、私が訪問する少し前に「筑豊のパシフィック」で有名だった若松区のC55(最終期にはC57も)の牽く旅客列車や全国でここだけになっていたD50は消えてしまい、若干楽しみが減ってしまっていた、それでもD51・D60・9600(若松区、直方区など)の牽く多くの客貨と若松(折尾)から中間を経て香月線に入る貴重な8620の旅客列車など顔ぶれは多かった。

九州入りして最初に撮った蒸気機関車の牽引列車となった貨1790レ D5142[若]

まずは線路側を中間方向に歩き、国道を潜ってしばらくしたところでカメラを構えた。そして6:50頃上り列車の響きが聞こえ最初の撮影列車がやってきた。以下歩きながらの撮影は息つく暇も無いほど次々と蒸機列車がやってきて、まさに九州のSLを味わうことができた。

早朝の四線区間を猛烈な煙をあげて走り去っていった
下り客723レ D511064[若]

左に先ほど通り過ぎた貨1790レの後部が見える

下り貨8761レ D6069[直] 初めて撮影したD60
 

香月線からの乗り入れの客レ、38629[若]上りは正向でやってくる。右は貨1691レだが、今日は日曜で運休のためか単行でやってきた。D6022[直]


下り客125レ 先ほど撮った38629が折尾で折り返して逆向で戻ってきた
上り客726レは若松行き D511155[若] 戦時形のほぼラストに近いナンバー
下り客727レ D51225[若] 

若松方から来た下り線が門司港方面への上り線をオーバークロスするあたりはちょっとした勾配の築堤になっていて山の中のような風景に見える。機関車も程よく煙を吐いてくれていた。

今日三度目の38629、香月まで行ってまた戻ってきた客124レは朝日を浴びていい雰囲気
 
貨貨8721レ D6067[直] 今回初の門鉄デフ装備機

ここまで約1時間半ほどで蒸機牽引列車を8本も撮影できた。約10分に1本の割合の密度はやはり複々線の賜物だろうか(運休などや見逃した列車もあったかもしれない)


中間駅付近

貨1697レ 19636[若]

中間の駅が近くなり、この辺りで今回初の9600牽引列車に出会った。カマは19636[若]で若松の9600は筑豊本線では小運転や他線への乗り入れ運用が多かったようだ。駅の前後でもまだ撮影ができ、客728レをはじめ、D60の客車列車の発車なども見られた。そのあと今朝一番で出会ったナメクジD5142の豪快な発車を撮影して折尾ー中間での撮影を終了。約4時間で12本もの蒸気機関車牽引列車をカメラに収めることができた。内訳がD51が42・1064・1155・225・1150(全て若松区)、D60が69・22・67・28(すべて直方区)、8620が38629(若) 9600が19636(若)だった。

客728レ D511150[若]

若松のD51は訪問時の直前にこの線から引退したパシフィック機C55・57の代わりに鳥栖区などから転入してきたものが多かったようで、ほぼ客車牽引の運用を引き継いでいたようだった。

客1729レ D6028[直]
試8751レ D5142[若]

直方機関区を見る

煙がなびく直方機関区

中間9:13ー1731D→直方9:28

直方は訪問時点で9600・D51・D60を多数擁する筑豊の主要機関区で、72年でもまだ構内に多くの煙を見ることができた。しかし同区をはじめ、門司鉄道管理局内の機関区の撮影はファンの殺到などの問題が多く、当時すでに訪問禁止になっており(週の1日の僅かな時間だけの許可制)当然撮影はできないのだが、直方の場合校内の跨線橋が良い位置にあり、ここからなら機関区にいる蒸機を撮影することができた。アップしている画像は全てその周辺やホームからのものである。

跨線橋から若松方面を見る。広い構内のあちこちに蒸気機関車が駐泊しており、また多くの石炭車や一般の貨車、客車も列をなしている。まだ鉄道が輸送の主役の地位をここでは保っているような気がした。

奥に扇型庫、転車台、給炭装置が見え、D60やD51が憩う直方の風景(原田方)
大正から昭和初期の蒸機の風格が滲むD6028のディテール

先ほど中間で発車を撮った1729レは直方止まりだったので、役目を終えたD6028が側線で次の仕業に備えて準備中だった。D6028は元D50306(昭和3年製造)で、昭和27年の改造以降は直方区一筋のカマでこの6月に廃車になった。撮影時はあと三ヶ月の姿。


跨線橋を降りて機関区の線路際まで行くとそこには休車や廃車指定を受けて役目を終えたカマが留置されていた。このD6057号機もこの3月4日に廃車となっていて、解体のための工場送りを待っているようだったが、幸いにも主連棒やナンバープレートはまだつけたままだった。

数時間後、直方に戻り同じ位置に行くと先程のD6057がいなくなっていて、代わりに門鉄デフを付けたD6026号が留置されていた。57号は直方での最後の姿だったのだろうか?(26号も同じ3月4日に廃車宣告されていた)


 
「汽車駅」に相応しい折尾駅のDJスタンプ。今回使ったスタンプ帳その1

上を行くのが鹿児島本線の特急(483系あたりか)で、下が筑豊本線のD51あたりだろうか。鉄道ファンにはたまらない図柄で、SLブームとDJキャンペーンが合体したようなスタンプだった。なお表記の歌詞は筑豊の『炭坑節』の一説で、折尾駅を唄ったもの。右上の歌詞が薄いが「上も行く行く 下も行く(ヨイヨイ) 一度おいでよ折尾駅」であり、左が続きの「なんぼ別れがつらくても 別れにゃならない上と下(サノヨイヨイ)」であろう。※合いの手は表記されていない


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