惜別 交通博物館

 

長い間全国の鉄道ファンに親しまれていた東京神田の交通博物館がまもなく埼玉県大宮市に新たな「鉄道博物館」(2007年秋オープン予定)として移転します。そのため現在の建物は2006(平成18)年の春頃には閉館となります。これまで狭いながらも都心の真ん中で頑張っていた鉄道ファンの殿堂もあと2年あまりでその役目を終えようとしています。膨大な鉄道や交通資料の展示を通じて私たちに夢を与え続けてくれた交通博物館の功績を讃えたいと思います。
そして移転に伴って役目を終えるであろう建物自体も意外と知られていませんが、改めて眺めると随所に洒落たデザインを凝らした昭和初期の近代的コンクリート建築として再評価されるべきですし、もちろん館の内外に残る貴重な旧万世橋駅の遺構とともに単なる跡地の再利用ではなく、「産業文化遺産」として活用してくれることを願って止みません。(展示車輌の移設や建物の老朽化などのため、残念ながら解体となる模様ですが・・)
 東京に住む私たちにとって長年親しんで来た交通博物館は、小学校の社会科見学などでも訪れましたし、みんなが好きだった「乗り物」への興味をたっぷり満たしてくれる「楽しい場所」でした。そんな子供達は成長しても何かにつけて足を運んだ「交博」〜その最後の姿や思い出などを簡単にまとめて惜別の意を表したいと思います。


1号機関車

交通博物館の展示物としてはまず第一に記憶しておきたいのはやはり鉄道創業時の記念すべき1号機関車であろう。「鉄道記念物」として1階ホール内で大切に保存されているこの機関車についてはさまざまな書物などで紹介されているので説明は簡単に下記に示したが、初めて見た頃は屋外にありその後館内に移されて塗装の変更、汽笛の吹鳴などが行われるなどいくつかのエポックもあった。また現在は館内で離されてしまったが、屋外展示開始から29年後の1970(昭和45)年8月に大井工場で復元された「鉄道創業時の客車」と連結展示され往時をより偲ばせるスタイルとなっている。


1号機関車 型式150

1871(明治4)年、英国バルカン・ファウンドリ−製(製造番号614)。同時期に購入された1Bタンク機9両とともに京浜間で働いた日本最初の鉄道用蒸気機関車で、1型式1両であったが栄光の「1」号を名乗った。1880(明治13)年11月、神戸へ転用され神戸工場で大修繕のうえ、武豊線の敷設工事に携わり引き続き同線などで働いた。その後第一線を退き大阪駅の入換専用として永く使用されたのち1891(明治24)年4月1日付けで島原鉄道へ売却され同社の1号機となった。その後保存のため1930(昭和5)年6月、1B1タンク機656と交換されて国鉄に戻り大宮工場で修繕・整備のうえ1936(昭和11)年にこの交通博物館に展示された。当初のナンバーは鉄道作業局では「型式A1」であったが1909(明治42)年に150(型式150)と改番された。鉄道記念物(1958[昭和33]年10月14日指定)・重要文化財(1997[平成9]年指定)


C57135

 
蒸気機関車C57135号機

いわずと知れた国鉄最後の蒸機牽引営業旅客列車を牽引した機関車である。

C57135

1940(昭和15)年5月27日、三菱重工神戸造船所製造。同年6月1日高崎機関区に配属、高崎線を中心に活躍。1952(昭和27)年4月13日小樽築港区へ転属、道内の幹線を走り出す。1968(昭和43)年10月2日に室蘭機関区、翌年岩見沢第一機関区へと移動し最後は室蘭本線岩見沢〜室蘭間を職場とし蒸機ブームの最晩年まで生き残り、多くのファンの被写体となった。1975(昭和50)年12月14日、室蘭発岩見沢行き普通225列車の先頭に立ち「日本最後の国鉄定期旅客列車」の牽引機となった。(実際のSLによる定期運用は、その前日の225レを牽引したD51953〜道内豊浦町に保存〜である。)


C57135の北海道からの移動〜搬入のレポートは、鉄道ファン184号(1976ー8月号)に詳細記事があります。(1976ー5ー14展示公開開始)

9856号との並びもあとわずかである。落ち着いた照明の下で保存も良好。
2005(平成17)年は135号の生誕65周年および退役30年の記念の年でもある。(廃車は76年だが年度は75年であった)交博最後の年度ではあるが記念のヘッドマークが取付けられていた。

※C57135の細部については吉野富雄様主宰の五条川鉄道写真館保存C57135を御覧下さい。


善光号

 
屋外のちょっと狭いところに鎮座している善光号。左は最近の姿で右側は昭和45年(1970)頃のものであるがあまり変わったところは見られない。

『善光号』の愛称で親しまれているこの機関車もまた鉄道創業時に活躍した貴重な機関車である。サドルタンク・内側気筒といった特異なスタイルが目立つ一風変わった趣を持っている。
 この機関車は英国マニング・ワードル製のC型タンク機で、新橋〜横浜間ではなく最初の発注車2両が京都〜神戸間の鉄道工事用として1872(明治5)年に輸入された。機番は22と24号で1909(明治42)年に型式1290の1290・1291と改称されたが1911(明治44)年に千葉県に譲渡(1・2と改称)、1930年頃に廃車となった。こちらの「善光号」はもともとは日本鉄道が1881年に製番815のものを購入したもので、川口市の荒川善光寺河岸に陸揚げされたため“善光”と命名されたのであった。その後1894(明治27)年に「3」そして「甲1」と改番されたのち、同鉄道の国有化後に先の2両のあとを追って「1292」と改番された。鉄道記念物(1959[昭和34]年10月14日指定)
 廃車は1923年頃だが、変わったスタイルと日本鉄道の最初の機関車という由来によって早くから池袋の鉄道教習所構内の保存され、その後鉄道記念物としてこの交通博物館に展示されたのである。


マレー式 9856号

※9856の細部については吉野富雄様主宰の五条川鉄道写真館保存9856を御覧下さい。

また同機の非公式側に残る珍しい機構“オートマトン”についてはこちらを参照下さい。


地下鉄1号車と弁慶号

 
昭和45年頃の地下鉄1001号と現在も健在な7100型式弁慶号

弁慶号(7101)
1880(明治13)年、米国ポーター社製(製造番号369)
幌内鉄道2号機(愛称“弁慶”)として北海道最初の鉄道で働き始める。その後幌内鉄道は「北有社」社名変更したが、同機は明治22年に北海道炭礦鉄道へ移管さらに明治39年の同鉄道国有化に伴い明治42年に型式7100の7101号に改番された。晩年は道内各地の鉄道建設に従事し廃車後の大正12年8月に保存のため東京へ移送された。(この時は「義経」と間違われての保存移管)
この際東北線黒磯構内に留置中に関東大震災に会い、しばらくたって大宮工場で復元工事が行われ「弁慶」として鉄道博物館に保存された。1958(昭和33)年10月14日「鉄道記念物」指定。

北海道最初の機関車7100型式弁慶号はすっかりお馴染みだが、同僚の「しづか」や「義経」が保存後も動態で復活したり、北海道での再会などを何度もしているのに対して昔は展示会に顔を出したりはしたがここ十数年は「立ち往生」よろしく交博の片隅にじっと鎮座したままである。1号の館内移設や化粧直しなどで環境は多少良くなってはいるものの、相変わらずの隠居生活のようである。大宮ではどのような生活が待っているのであろうか。一方日本の地下鉄創業時の第一号車であった東京地下鉄1001号は1986(昭和61)年に開館した「地下鉄博物館」に安住の地を得てここを去っていった。なお右に見えるのは今は館内に収まった「国鉄バス1号車」である。


“鉄道ファンの聖地”交通博物館の沿革

1921年(大正10)10月14日、鉄道開業50年を記念して「鉄道博物館」という名称で東京駅北側高架下に開館。その後関東大震災で被災したため万世橋駅のあった現在の場所に移転したのが1936年(昭和11)4月であった。
その間中央停車場(現・東京駅)の開業や中央線の万世橋〜東京間の延長開業などでターミナル機能としての役割を終えていた2代目万世橋駅舎(関東大震災で被災し再建)も解体されて博物館主体の建物が建築された。 移転当初は万世橋駅もまだ営業を行っていたため駅に附随した施設であったが、1943(昭和18)年に駅は廃止となり、また戦後の昭和21年(1946)に鉄道以外の交通関係の資料の展示も開始したため昭和23年(1948)、「交通博物館」と名を改めた。
また戦後は運営を日本交通公社〜鉄道文化振興財団が引き継ぎ、国鉄民営化以降はJR東日本が関連施設として管理・運営にあたっている。
 2001(平成13)年には開館80周年を迎え、初めて一般にも旧・万世橋駅への通路などを公開した。


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