下町の都電最後の日 昭和47年11月11日 その2

28系統の3242が材木の浮かんだ川を渡る

千石・猿江町の28系統

最後に残った路線のうち、総武線から東西線の間を南北に走る3本の系統があった。 両国付近(緑町=東両国)ー門前仲町の23系統、錦糸町ー東陽公園の28系統、そして亀戸ー境川ー南砂町の38・29系統である。その真ん中を走る28系統は東陽公園前から38と分かれて豊住町・千石町・千田町・猿江町・・・と下町らしい町中を平凡だが確実に人々の生活の足となって息づいていた。

千石町付近を走る28系統日本橋行き3177 端正な顔立ちのこの型式も消滅する
千石町電停標。安全地帯と向きがあっていないが隣の理容室のレトロなサインポールと並んだ姿が似合っていた
さらにふたつ先の猿江町へ移動
車にもまれながら3136の日本橋行きがやってきた
車内は遠目に見ても多くの乗客が乗っている。やはり今日という日を物語っているのだろうか。

このあとの行程が思い出せない。ネガではいきなり大島一丁目の風景になっているので、おそらくここから28系統で錦糸掘、そして29か38系統で移動したのだと思うがそれにしては途中のスナップもネガに残っていない。その他のルートで移動したのかもしれないが・・・。


専用軌道の賑わい 29・38系統 大島一丁目ー竪川通

専用軌道を賑やかに行き交う「下町の都電」
29系統須田町行7054、反対は葛西橋へ向かう29系統の7044。10番違いだがアンチクライマーの形状など微妙な変化が見られる。その後ろに続行するのは38系統の門前仲町行8010。
大島三丁目の電停 バックはお菓子屋(駄菓子屋)さんだろうか
タターン、タターンと軽快な響きを残して8000型が専用軌道を走り抜けていく・・・。
下町の専用軌道、バックに都営団地を望むこの区間は皆に親しまれた撮影ポイントだった。

※38系統は日本橋ー錦糸堀車庫前だったが、この前年の46年3月に門前仲町までに短縮されていた。日本橋までは途中の東陽公園で合流する28系統が重複しており、始発も(一部別ルートだが)同じ錦糸掘(28はすぐ近くの錦糸町駅)だったことから日本橋まで直通する乗客にとっても利用客の減少、途中での東西線での時間短縮なども考えての処置だったのだろう。(28系統もそれ以前は日本橋さらに足を伸ばして「都庁前(当時)」までいっていたのを44年に短縮されている。)


大島三丁目から錦糸堀方面へ向かう。次の大島一丁目から竪川通ー水神森の区間は専用軌道から道路との併用軌道が混在した区間となるが、途中の竪川を渡る橋は都電専用となっていて、また道幅の狭い道路をごとごとと民家を間近に走る風景が展開し、「下町の都電」を象徴する区間として人気があった。

境川からの29系統・錦糸堀車庫止まりの7047

続いて須田町まで行く7050が通り過ぎていった。

望遠レンズでとらえると上下にうねるように敷かれた軌道の上を走っているように見える。道路と専用軌道が混然一体とした街の風景も今ではあまり見られなくなってしまった。これでも人と車と電車の調和がとれていて事故などあまりなかった時代だった。「CAUTION 止まれ見よ」の標識もこういった場所には不可欠なものであるが、また良き風景の演出物でもあった。

8010


※このあとおそらく29系統で須田町まで乗り、万世橋ー外神田ー上野付近で夕刻を迎えた。いよいよ最後の時が迫ってくる感じがして寂しさがこみあげてきた。


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