下町を回った後須田町から24系統の走る上野に向かった。いつものように電車は人々を乗せ、車の波にもまれながらも黙々と働いていました。しかし電停の表示は解体が始まり、廃止を知らせる看板とともに「最後の時」が迫っていることを痛切に感じさせました。
上野一丁目へ足を伸ばす こちらの安全地帯にもすでに解体が始まっており、外された停留所標示が道路脇に置かれていた。この「むなしい光景」があちこちで目に入り、一層“最後の日”を実感させられた。
上野周辺を後に24系統で柳島へと向かった。もう日は落ちており車庫に立ち寄ったかは定かではないが、車庫前で発車を待つ電車の列は最終日とて変わらずそのままだった。ただ都電を見つめる乗務員の方々の姿にはやはり長年苦労をともにしてきた電車たちへのねぎらいとまもなく終りを告げる「下町の都電」への愛惜の念が感じられ、とてもさびしいものであった。
今回この柳島車庫の管轄である23系統・柳島(福神橋)ー月島と24系統・柳島(福神橋)ー須田町が廃止となり、この車庫は残存した27・32系統(現・荒川線)へ7500型の一部が移籍するのを除くとほとんどの車輌が役目を終えて引退となっていた。
このあと23系統の電車に乗り門前仲町へと向かう。その車内には「廃止のお知らせ」がかかっていた。
昭和47年11月11日の都電装飾電車は、23系統が6150・6151、24系統が6214・6216、27系統が6161・6166、28系統が3173・3235、29系統が6081・6104、38系統が6107・6250の計12両で朝9時から夕刻と8時から終電までの運行でした。7500が入っていないのは直後の荒川転属が決まっていたからでしょうか?また3000・6000型が選ばれたのは当然のこととしても、今回で完全に引退となった8000型にも「花」道を飾らせてあげたかったような気がします。しかし「都電を代表する型式」としてこの2型式が主役となってよかったのかもしれません。この下町の都電最後の花道ということで飾られた12両、最後を控えて荒川・柳島・錦糸堀車庫の方々が一生懸命紙の花飾りを貼付けている様子が頭に浮かび、心あたたまる思いがしました。
錦糸堀の賑わいの中、6081を見送り、最後は帰り道でもある38系統に揺られ門前仲町で降りた。ここで私にとって本当の最後となる「下町の都電」の情景を目に焼き付けて帰路についた。
最後なんて見たくないと思ってためらっていたあの日ですが、やっぱり出かけて名残りを惜しめて良かったような気がします。装飾電車も多数運行されて華やかな最後でしたが、やっぱり下町の皆さんにとってはとてもさびしい一日だったのでしょう。あれからもう30数年たちました。蒸気機関車より早く消えて行った東京下町の都電(荒川線はのぞきますが)、今でも皆さんの記憶の中で愛されていることが不思議なくらいです。
※廃止系統の主な経由地
柳島車庫管内
23系統 福神橋ー柳島ー押上ー本所吾妻橋ー緑一丁目(東両国緑町)ー森下町ー門前仲町ー越中島ー月島 約8.7キロ
24系統 福神橋ー柳島ー押上ー本所吾妻橋ー浅草ー上野駅ー上野広小路ー外神田五丁目ー万世橋ー須田町 約6.8キロ
※福神橋は柳島(車庫前)からさらに東へ昭和33年に延長された区間。
荒川車庫管内
27系統(部分廃止)王子駅ー北区神谷町ー志茂二ー赤羽 約3.9キロ
錦糸堀車庫管内
28系統 錦糸町駅前ー住吉町ー千石町ー東陽公園前ー洲崎ー門前仲町ー佐賀町ー茅場町ー日本橋 約8.7キロ
29系統 葛西橋ー境川ー大島三ー竪川通ー水神森ー亀戸駅ー錦糸堀ー緑一丁目ー両国ー浅草橋ー須田町 約8.8キロ
38系統 錦糸堀車庫前ー錦糸堀ー亀戸駅ー水神森ー竪川通ー大島三ー境川ー南砂三ー東陽公園前ー洲崎ー木場ー門前仲町 約9.6キロ
※28系統(錦糸町駅前ー都庁前)と38系統(錦糸堀車庫前ー日本橋)はともに錦糸町駅周辺から下町の道路を別ルートで走り、東陽公園前で合流して門前仲町から永大橋を渡り都心の日本橋方面まで運行していましたが晩年はともに路線を短縮し、28系統は日本橋まで、38系統は門前仲町までになっていました。 28系統 都庁前ー日本橋は44ー10ー25廃止、38系統 日本橋ー門前仲町は46ー3ー18廃止。 ※弊コーナーの「第2回」では日本橋での38系統の姿を掲載しております。